世界にひろがる媒体に東京をプラグインしたら、すぐにつながると思った
松嶋「今晩もお集りいただき、ありがとうございます。無事に13回目です。
今回は、場所を変えて恵比寿なんですが、同じ77年会のつながりのタイムアウトカフェで開催となります。
ゲストは、タイムアウトの代表取締役の伏谷さんです。」
伏谷「そもそもゲストというのが気持ち悪いよね(笑)」
松嶋「どうして、タイムアウト東京を始めたのか。
実際、どういうところからの反応が良いのか。軽く自己紹介をお願いしたいんですが……。
伏谷さんとは、京都で会ったんですよね。タワーレコードの社長として紹介してもらって、バイトから社長に成り上がったと聞いて、『すげー』と。
そんな伏谷さんがふっとタイムアウトを始めたきっかけは何ですか? その当時は、まだ観光とか、言われてなかったと思うんですよ。」
ギタリストを目指しながらタワレコでバイトしてたら社長に
伏谷「タイムアウト東京をやる前は、タワレコにおりまして。
たまたまバンドをやっていて、一旗揚げたいと大阪に出て、大学2年の時に、友だちと貧乏旅行でアメリカを旅して、ニューオリンズに行って。
夜がすごいんですよ。街角街角から音楽が聞こえてくる。ブルースがメインだんですが、ヨーロッパのテイストのすごく可愛い街で。
それを経験して戻ってきて、やっぱり、オレ、ギタリストとしてがんばろうと思って、夏休みが終わって1日大学に行ったんだけど、その後ずっとこもって1日8時間くらいギターの練習をしてた。
で、留年して、5年生の時に、タワレコが大阪にできるっていうのを見つけて、アルバイトで受かって、タワレコに入りました。もともと、タワレコに入りたくて入ったわけじゃない。
松嶋くんほど乱暴じゃなかったけど、『この会社はここがくさってるんじゃないか』とか今とは違って無法地帯だったから、自分の意見をがんがん言うやつをおもしろがってくれて、自分のフィールドを会社が広げてくれて、気づいたら、社長になってた。36、37くらいの時かな。それも最初はすごく断って。」
伏谷「大阪の僕の働いていたお店が成功したんですよ。タワレコとして初めて、Jポップという言葉が初めて生まれたお店。
その成功を東京で凱旋で持ってこようと。当時の店長がルミネにお店を出すから、一緒に行こうよって。社員になった1年目くらいに東京に出た。
で、そろそろ、タワーをやめて、音楽の制作をやるとか、別のことをやった方が良いかなと思って、僕、やめますって言ったら、当時の上司が営業本部長になっていて、でも、あいつは面白いから、やめさせちゃいけないんじゃないかって。オマエ、次の経営会議で、なにやりたいか、プレゼンしろって。」
ネットで音楽を売る時代の到来を予感
伏谷「新宿店の2年目に僕は店長になっていて、ちょうど1年目くらいに、今の渋谷店ができた。それまでは朝から晩まで、営業でレコード会社の人が来てたんだけど、渋谷店ができてから、誰も来なくなった。嫌な気分になって、渋谷店を超えるプロジェクトは何をやったら良いかを考えてたんですよ。たまたまアメリカでミュージックぶるバードとか、インターネットをCDを売るのが始まりはじめた。ヴァーチャルだから、在庫は無限だし、渋谷店は、世界最大の在庫を持っている。
インターネットでショップを持ったら、渋谷に勝てるんじゃないかと思って。
『インターネットのお店を出してくれたら、残っても良いよ』って。
これからECが日本でもはやるから、日本でもやった方がいいんじゃないかって。
『ECっていくらかかるの?』って96年は誰も知らないから、お前ら、流通の世界に関わっていて、インターネットを知らないの?って。オレも1ヶ月前に知ったばかりだったんだけどさ(笑)。
その当時、副社長だった森脇さんが、あいつはなんなんだ?とあいつがひとりでやるんだったら、やってもいい。そのかわり、二度とあいつを経営会議に顔を出すなって。自分ひとりで事業部をつくってやっていいんだったら、ちょうラッキーって思って。デジタル事業部をひとりでつくって、ECをひとりで立ち上げた。渋谷店ができて2番になったとはいえ、新宿店の店長室の隅っこに間借りしてやってたから、フシタニは絶対になにかやっちゃったと思われてたけど、僕はすごく楽しかった。
ゆりかごから墓場まで、アナタの音楽ライフをCDライフが面倒みます、っていうコピーがあったんだけど、それをぱくって。『お金がないんだけど、すっごい若者に人気があるから、一緒にやりませんか?』っていろんなところに営業しに行ったんですよ。
でも、NTTとか、外の企業に行くと、相手にされない。
たまたま渋谷店ができた時に広報室に入った人の奥さんが、伊藤ジョーイさんのパーソナルの秘書だった。タワーの上層部の人にジョーイに会う?って言っても誰も会いたいって言わなかった。伏谷さん会います?っていうから会いたいって言って会いに行った。
ジョーイはエヴァンジェリストで、何を言ってるかまったくちんぷんかんぷんで。でも、僕がサンとか声をかけるから一緒にやりましょうって言ってくれて。たぶん、日本で1番古いECサイトですよ。で、立ち上がったんです。
それができて、僕的には、ネタでもなんでもないけど、経営会議で、最先端の話をしにいったのに、相手にしなかった当時の副社長がオレの中では悪の権化だったの。あいつがいる限り、タワレコはつぶれるっていいながら、ECをやってたら、しばらくして、会いたいんだけどって電話があったの。
2時間くらい話してたら、あの時は悪かったって。開口一番。
その頃、タワレコがメインストリームに出てきて、たくさん店舗をつくって資金繰りが大変だった。そんな時に、オレが、3億くらいあったらできるんじゃないですか?って簡単に言ったから頭にきたと。
でも、予算もつけなかったのに、ひとりでタワーのECをたちあげて、ここまで持ってきて、すごかった。マーケティング本部をつくれって言われたんですよ。
その時は、マーケティング本部って何だろ?って思いだながら、わかりました、いいっすよって言っていた。オンラインビジネスと、メディアとか、コンテンツのビジネスを少しやっていて、これでどうですか?って。
ちょうどタワーがNO LIFE NO MUSICとかやっていた時で、でも、アメリカのタワーがだんだん売り上げが落ちてきて。唯一利益を出していた日本を買収しないとやっていけない。タワーが買われた後に、じゃあこれから、ファンドが買ったんだから、当然5年くらいで上場しますってことになる。上場に向けての事業プランがお披露目されたんだけど、CDショップが、20○○年まで増えていくんですよ。世界的にCDショップがなくなっていくのに、日本だけ大丈夫なのか、意味がわかりませんって思ったんですよ。
執行役員になって、7月の株主総会の日に、こういうプランで、のれん分けで今マーケティング本部を外の会社に出さしてほしいと提案した。
僕は、CDショップがこれからも増えていって、上場できるとは思わない。
タワーは、音楽ファンをつかんでいるけど、別にそれはCDだけじゃなくても良い。
いろんな方法でCDファンをつくるこを考えたい。こけても良い感じで、のれんわけで外に出さしてほしい。森脇さんはわかったと。オマエとオレは違うよね。たぶん一緒にいる必要がないから、できるだけ遠くに行って成功してくれと。二度とオマエを本体によびもどすことはないと。そのころ、森脇さんは社長になっていて、次の社長を選ぶ時期に入っていた。僕は時期社長を選ぶ競争に入りたくなかった。株主総会の後に、株主と話して、分社して出た。
数ヶ月して、まずは上場に向かっていくときは、安定株主つくりをやる。大きい商社さんとかに株を持ってもらったりするんだけど、いや、伏谷さん、安定株主作りがなかなかうまくいかない。全然話が進まないんですって相談がくるようになった。
僕は別の会社だから、他人ごとだったんだけど、申し訳ないけど、次の資本制作のミーティングの時に来てほしいと。
タワー本体のCFOが説明しても興味がない。でも、僕はコンテンツ展開をこうでこうで、って説明していくと、伏谷さんとこの株価は……って話になっちゃう。
それから少ししてから、森脇さんから電話がまたかかってきて。何ですかって会ったら……『悪いんだけど、オレやめるから、オマエあと、社長やれよ』って。
『二度と呼び戻さないって言ったじゃないですか』って。
でも、その会話の後、赤坂の料亭で、社長就任の飯会がセッティングされてたんですよ。だけど、ことわっちゃったけど、赤坂で待ってるから行ってくれって。すごい雰囲気の中で食事をした。
でも、少し悩んで、僕もふら~と入った会社で、いろんなことをやらしてもらったので、なにかやらなきゃなと思って、タワーの社長になった。これが、社長になるまでの話。長いね、(笑)」
タワレコとか、ナップスターとかアメリカのものをやってきたから、次は国産じゃないのって
松嶋「その経験をいかして?」
伏谷「タワーの社長になったんだけど、CDショップが増えて、明るい未来が待っているというのはなかった。
音楽配信を持ってこないとダメだと思っていた。iTuneがひとりガチ。それに、当時のいけてないCD屋さんが対抗するものをつくるのは難しい。
そんな時、たまたま泊まっていたカンヌのホテルからiTunesの看板が見えて、その横にネコのナップスターの看板があった。
そのネコに、黄色いCDショップの袋を持たせたら、はやるんじゃないかって思って。ナップスターの人に会った。
CD屋さんと、世界の2番目のマーケットがなんで組まなきゃいけないんだって話になった。
だから、プレジデント級の人を日本に招待して、渋谷とか新宿とかに来てもらったら、日本ではCD屋さんがまだいきていますってことになって。
お金が必要だからってんで、ドコモの夏野さんに会って。その頃、auがリスモの前のやつで人気があったんだけど、それを、ドコモ、ナップスター、タワレコで追い落としましょうって。
結局、2年くらいでナップスターはなくなっちゃったんだけど。
もともとのタワレコのプランは、CDが当然音楽配信とかをメインに考えてくれるんだけど、
ドコモの人たちは、タワレコで、おさいふ携帯がはやれば良いと思ってたんですよ。だから、どんどん出店してほしい。そこで、意見が会わなくなってきて、僕はやめます、ってことで段階的にタワーをやめた。
で、次に何をやろうかと思っていた時に、タワレコとか、ナップスターとかアメリカのものをやってきたから、次は国産じゃないのって。
でも、仮に自分がすごくおもしろいアイディアを思いついたとして、それをどうやって世界に伝えていくか。
調べたら、外国語で発信しているメディアが日本に三十数紙あったんだけど、外国人は誰も知らないメディアなんですよ。
恒常的に日本の情報を出せる、海外の人が信頼するブランドメディアがないと、伝わらない。
それで、子会社をのれん分けでつくった時に、あるコーディネーターがきて、タイムアウトというのが、世界中にあるんだけど、東京にだけ参入できない。タワレコでやりませんかって。
タイムアウトはぴあみたいなものだと思っていたので、インターネットとかあるのに、世界で知られているとかあんまり関係ないから、ってその時は断ってたんです。でも、それを思いだして。
世界にひろがる媒体に、東京をプラグインしたら、すぐ世界につながるんじゃないかって。5年くらい経ってたんだけど、あれ、どうなりました?って言ったら、まだ日本にないって。
そのおじさんと2人で、タイムアウトを1968年に創業したトニーにアポをとって、2人で会いに行ったの。
雑誌をやったことないけど、今は世界中どこにもないタワレコが、日本にはある。少なからず、その一端を僕を担ったと思う。タイムアウトも、雑誌業界でつらくなるかもしれないけど、新しいビジネスに入るフェーズになると思うから、って。
自分でなにかサービスをつくるって思いはしたんだけど……。海外に足場があるから、日本のアーティストを海外にプロモーションしませんかとか、そういう相談を受けていたから、日本のコンテンツを海外に紹介していける。インバウンドの観光客をどんどん日本に呼んでくるためのコンテンツを信頼されているメディアがプロモートするのが大切。それが、その時の思いです。」